――本日は、スマブラ世界チャンピオンにお話しをお聞きします。今回は超大作でお送ります!チャンピオン、それではよろしくお願いします!
(以下、チャンピオンとお呼びいたします!)
ありがとうございます。宜しくお願い致します!
私は京都で生まれ、京都で育ちました。大学を卒業後、地元京都の大手老舗メーカーで海外営業部を担当、数社を経た後、今はダイエットアドバイザーとして独立し、会社経営をしています。
色々と経験してきたことが全て今に繋がっているわけですが、私の場合、人生における様々な出会い、経験してきたすべてのことのきっかけは、
ずばりですが… スマブラなんですよね。(笑)
すべての始まりはスマブラを極めた事
中学生の頃に出会った『大乱闘スマッシュブラザーズ』というゲームで、私の人生は大きく変わりました。
ニンテンドー64のゲームですね。 マリオやピカチュウが戦う格闘アクションゲームなんですが、10代後半〜30代前半の男性なら、みんな一回はやったことあるんじゃないでしょうか?
写真:大乱闘スマッシュブラザーズDX
――これ、めっちゃはまりました!学校帰りにみんなで友達の家に集まってバトルしてましたね〜。みんなで集まればとりあえずやる、って感じでしたね。
そうそう、そのスマブラです。私も中学時代に仲間内で相当やってたんですが、気付いた時には友達の中では無敵状態だったんです(笑)。
初めて参加したオフ会で、いきなり総当たり戦で全勝優勝で(笑)。それから何度か色々なオフ会に参加し、地元の京都や大阪のみならず、名古屋、と戦ってきました。
日本チャンピオンから世界へ
――そのうちに、日本中にスマブラコミュニティができ、ついに『スマブラ全国連合オフ会』(通称連オフ)という名の非公式日本一決定戦が行われるようになります。
これは、激しく気合いの入った猛者たちが3泊4日で、熱海の旅館に泊まり込んで総当たりを行うというもので、本物の日本一を決める大会でした。
参加者である64人との総当りは、精神的にも体力的にも過酷でしたね。
(マニアックな情報ですが、任天堂主催「64マリオスタジアム」のスマブラチャンピオン決定戦で優勝した、公式名人の及川君も参加するなど、当時の『スマ界』の役者がほとんど揃っていたんですよ。)
もの凄く苦戦しましたが、そこで自分でも驚きの優勝。そして気付いたら3年連続優勝まで達成することができたんです。
何かで日本一になれたことは自分でも嬉しかった。
――大学に入って1年ほど経過した頃、アメリカから一通のメール。
内容は、スマブラアメリカ大会があるから来てみないか、というもの 当時、大学2年生でしたが、記憶にある中では一人での初海外でもあったので、もううきうき。親に話してみると、「好きにしたらええんちゃう?」って言ってくれて。
そんな感じでサンノゼ(カリフォルニア州のシリコンバレー近くの都市。)に招かれた19の夏。当時のアメリカNo.3のプレイヤー宅に1ヶ月半宿泊させてもらいました。
彼の家から少し歩くと、大きな湖があった。 雄大な自然。 天気は雲ひとつ無い晴天。
外はどこまでも続く長い道。 人で湖のほとりを歩いていた時、ふと天から声が降ってきたように感じたんですよね。
俺は今まで何をやっていたんだろう、と。
通っていたのは外国語大学で、フランス語を専攻していましたが、入学以来ほとんど勉強せず、フランス語のフの字もわからない状態。
この時点で既に2年の夏休み。1年の夏には高3から付き合った初めての彼女に振られ、いい男になって見返してやると決意したものの、特に何もせず今に至っていた自分。
そんな自分をふと恥じた瞬間だったんです。
いま思い出しても、人生に対するモチベーションが明らかに変わったのは、間違いなくこの海外を訪れた瞬間だったと思います。
スマブラは世界共通言語である
そんな僕ですが(自分で言うのもなんですが)、アメリカではどこに行っても大人気。
日本トップレベルのプレイヤーがアメリカに来た!って言ってくれて。日本・アメリカのような大国の大会に、他国のトップが参加するというのが、スマブラ界でははじめてのことでもあったんですよね。
みんな対戦しよう!って感じで話してくれ、対戦待ちの長蛇の列ができたり(笑)。
1ドル札やコントローラー、はたまたTシャツなどを持ってきて、サインや写真をねだられることもよくありました。いや、それは単純にめっちゃ嬉しかったですよ(笑)。
スマブラ一つである意味有名な存在になれましたし、海外大会に参加し続けたおかげで英語も上達しました。
海外に行くと、案外現地人と仲良くなるのは簡単なことではないですが、スマブラというユニバーサル言語を共有することで、会った瞬間から友達なわけです。
スマブラって、良いコミュニケーションツールなんですよ!(笑)
欧米でも、人種差別が現実としてある。しかし、世界のスマブラコミュニティ内では、全くと言っていいほど人種差別がなかった。スマブラを通じて、日本人、アメリカ人、カナダ人をはじめ20カ国近くの仲間と出会い、話し、互いの家に泊まり、切磋琢磨しながら共に時間を過ごしてきた。
大きな価値観を共有する平和な集団の一員であることがどれほど素晴らしいことか、大事なことはすべてスマブラが教えてくれました。
チャンピオンのロゴ
全米大会の決勝戦(TR6という名前)の相手はアメリカ人。
「完全にアウェイだな…これは辛い戦いだ…」と思っていたところ、試合が始まって耳にしたのは、なんと自分のハンドルネームであるCaptainJackコール。
19歳の若造にとって、少し前まで他人だった100人のアメリカ人から応援されることは、想像以上の衝撃でした。
まさに、異国から来た自分をアメリカが受け入れてくれた、そう感じた瞬間でした。
――チャンピオンはアメリカに1ヶ月半滞在し、3つの大会で2度の優勝、1度の準優勝という輝かしい成績を残します。
その後はオーストラリアの方から、航空券をはじめ食費や滞在費など全て負担するので、コントローラーと身体一つで来てくれ!というありがたいオファーがあったり、フランスにスマブラ遠征に行ったりと、私の人生はスマブラでどんどん動いていきました。
海外遠征で日本と海外のレベル差を感じ、私とその兄弟(当時、3人全員が日本トップ8でした)の対戦動画をホームページ上で、日・英・仏の3カ国語で世界に向けて公開したんです。
スマブラ界のレベルをグローバル規模で底上げすることにもトライしていきました。You Tubeができたばかりで、まだ誰も存在を知らない時代のことでした。
なんとかその取り組みが功を奏し、時が経つにつれ海外のレベルがじわじわと上がるのを実感しました。
自分が大会でも負けるということが起こるようになり、悔しいながらも嬉しい成果が得られました。
サイト自体は、2年半で150万ヒットを達成。アクセス数は日本・海外でおよそ半々でした。
このサイトを通じて『スマ界』を知ったプレイヤーが、私たち当時の現役トップが退いた後、界隈を引っ張る存在になってくれたりと、スマ界に良い影響(Force for Good)を与える存在であったと自負しています。
その後、1年間フランスに留学した際も、やはり現地のフランス人の友人たちと、スマブラのおかげですぐに交友を広げる事が出来ました。(現地でもパリやニース、トゥールーズなどで大会に参加)フランス人の友人たちと、オランダやスウェーデンにも遠征に行きました。近隣国の海外遠征は、20回ほどでしょうか。
アフリカ大陸での衝撃
そんなこんなの大学生活を過ごし、就職活動を終えた頃、就職まであと7ヶ月の猶予期間がありました。
いざ残りの時間で何をやろうか考えた中で、ふと浮かんできたのがアフリカでした。
世界地図を見ながら目的地を探してみたところ、圧倒的な存在感を放っていたのがやはりアフリカ大陸だったんですね。日本人にとって地理的に、感覚的に、全ての意味で最も遠い存在であるアフリカに行ってみたい!強くそう思いました。
そしてアフリカに、70日滞在。
――当時22歳のチャンピオン。ムルシ族との一枚。
アフリカのことは既にいくつかこちらに書いていますので、そちらを見ていただくことにして、まだお伝え出来ていない小ネタがありますのでお話します。
いちスマブラーとして、アフリカに来た当初出会った、カメルーン人との会話が衝撃的でした。
「スマブラで日本、世界チャンピオンになって・・・あ、任天堂のね。え、任天堂ってなにって?ほら、マリオとかヨッシーとか。え・・?なに、マリオを知らない!?」
世界共通言語かとも考えてきたスマブラ(というかマリオ)ですが、アフリカまでは広がっていないようでした。(さすがにそうか!)
自分は視野が狭かった、いや、自分がまだ知らない、より広い世界がある!この時、強く感じました。
今考えればそりゃそうだろって感じですが、今でもまだ経験不足甚だしいのに、学生時代はなおさらでしすね。当時の私にはショックだったんです。
未知の環境に身を置くと、このように次々と混乱と衝撃の世界に見舞われます。それが世界を広げ、価値観に影響を与え、人生に深みを与えてくれると思います。
『世界全ての国に行く』ことが人生を賭けた夢に
――その後、大学を卒業しメーカーに就職してからは、海外営業を担当していたチャンピオンですが、入社前から察していた通り、やはりここは自分の道でないと悟ったそうです。
スマブラ海外遠征、フランス留学、アフリカ大陸縦断などを経て、自分の今までの自分はあまりにも狭い世界で生きていたんだということを痛感しました。 アフリカ某国で夜に一人宿のベッドで朝を待っていた時、私はこう思いました。
「今までスマブラー、学生、バックパッカーとして20カ国を旅してきた。なんと、それでも世界全ての国約230カ国からすれば、9%にも満たない。世界は広い。広すぎる!!
こうなったら、世界の国を全部この目で見てやろう。男なら一度は憧れる冒険をしよう。世界を冒険する旅に出よう!」
その夢の実現には、明確に必要なものが2つあります。それは、健康体であることは大前提の上で、『お金』と『時間』の自由です。
そのように考えた時、新卒で入社した会社で一緒に働く人は、同期も上司も良い人ばかりでしたが、自分がいるべきなのはここではないと再認識しました。
勤めていたのは家族からも友人からも喜ばれる、いわゆる地元の大企業であり、いま考えれば最初に与えられた環境のもと全力でがんばってみるべきなのでしょうが、当時は若気の至りのゆえ、せっかく入った会社を飛び出してしまいました。次のステージに行くことに決めたんです。
独立後の挫折、立ち直りのきっかけは人との出会い
その後、いざ仕事を辞めてからは、挫折や苦労することも多々ありました。
一つ大きな壁があったのですが、あるアメリカ人の著名な成功者のセミナーで、大きな出逢いがありました。
その方と通して出会った方が、私のメンターとして公私ともに実の父親のように可愛がってくださり、私の人生を変えてくださいました。 人生は、誰と出会ったかでどんなものにも成り得ます。未来のあなたの人生は、今のあなたの状態とは関係がありません。だから、特に若いうちは、いろんな人に会って話を聞くことをオススメします。 人との出会いは人生を変える力があります。私の場合はスマブラで海外の友人たちとの出会いがあり、独立してからもまた大きな出会いが私の人生を変えてくれました。
趣味であるヒッチハイク。その本質も人との出会い
実は、趣味として長年ヒッチハイクを楽しんできました。
11年目となった今、日本一ヒッチハイクを研究し、実践した人間だと自負しています。 きっかけは、忘れもしない2003年9月。18年ぶりの阪神タイガース優勝の日に友人とともに道頓堀のお祭り騒ぎを見に行き、終電をなくした事が全ての始まりでした。
友人とともに2台の車を乗り継いで四条河原町まで帰ることができ、「あれ?ヒッチハイクって意外と簡単?」という幸せな勘違いをしました。(笑)
その日以来、大学の長期休暇から始め、果ては週末ヒッチハイカー、京都−青森−長崎、京都−鹿児島の旅など、11年間で通算638台の車に乗せていただきました。
ヒッチハイクの本質は、人との出会い。乗せてくださった方と話をすることで、今まで他人だった方の人生の一幕を垣間みることができます。
本を読むことが大切なのは、凝縮された筆者の知恵と経験が詰まっているからですが、ヒッチハイクをすることで、生身の人間のリアルな人生に触れることができます。
このように、18歳の頃から多種多様な見知らぬ大人と接することによって、私の見識は大きく広がって行ったように思います。社長の肩書きを持つ方もとても多く、世の中に経営者がたくさんいることを実感しました。
私は、ヒッチハイクの旅に、『人の優しさに触れる旅』というキャッチフレーズをつけています。皆さん本当に親切で、車に乗せていただけるだけでもありがたいのに、缶コーヒーやラーメンをごちそうになったり、後日飲みに連れていっていただいたり、ご自宅へ泊まりに行かせていただいたり、とんでもなく親切にしていただきました。
10〜20代の間に享受した優しさを、これからは自分が他の人へ返して行くことが私の課題でもあり、また人生の大きな楽しみでもあります。
乗せていただいた方々の事はよく覚えていて、忘れられない人もたくさんいます。定期的に葉書でやり取りしている60代夫婦、同年代の僧侶、某バス会社社長、東南アジアを飛び回るやり手ビジネスマンなどなど・・・。
そんな出会いを活かして、今後もいま以上に活躍すべく、日々精進していこうと考えています。
――そんなチャンピオンは現在、スマブラプレーヤーとして活躍されながら、会社経営をされています。
最後に一つ、もし私が読者の方へアドバイスをさせて頂けるなら、まず「自分の得意分野を見極め、勝てる場所で勝負する」事です。
あの有名な為末大選手も25年の陸上経験から同じことをおっしゃっていますが、私も10年のスマブラ活動を通じて実感し、人生において心掛けていることです。
『勝てる分野』が見つかっていないうちは、たくさんの人と会って話をし、本を読んで見識を広げ、勝てる分野に出会うための努力が必要です。
なぜなら、人生は、全て人と人との出会いでできているからです。読書も、書籍を通した著者との出会いです。
このインタビューを読んで何かを感じてくださった方がいらっしゃいましたら、新宿周辺でいつでもお会いしますので、ceo[atmark]cje.nu までお気軽にご連絡ください。
私は、『人々が理想の人生を生きるよう導いていくこと』を人生のミッションに掲げています。貴方の人生の一助になれましたら幸いです。
聞き手より
たくさんの凄い経験をされているチャンピオン。一貫して、チャンピオンは仕事もオフもとても楽しそうにされています。
まだまだ書き足りないほど満載な、チャンピオンの話ですが、本記事では、ここまで。続きはチャンピオンのブログで是非。
JACK HOUSE by @CaptainJacksan: captainjack.jp
ちなみに友人がスマブラでバトルしましたが、全敗でした!さすがチャンピオン!
ポイント
① 自分の理想の人生像を明確に理解し、そうなるにはどうすれば良いか考える
② そのために得意分野を見極め、勝てる分野で勝負する
③ 人との出会いが人生を変えるため、(特に若いうちには)多くの人に会って話をする